自己発と他人発

最近集団的自衛権やら嫌韓嫌中やらに対して世間がヒートアップしていますが、ここに日本人の根っこからの国民性が見え隠れしています。

人間の根本的な本質は「私はこうしたい」という「自(己)発」と「こうされるからこう動かなければならない」という「他(人)発」のバランス感覚です。

そもそも西洋キリスト教の発生である旧約聖書の創世記において彼らが負った罪とは「蛇にそそのかされたイブにそそのかされたアダムという他人発の原罪」です。

だから彼らは他人発で行動するのが当たり前です。

これに対して中国や韓国を初めとするアジアの国々はというと「自己発の国々」の集まりなのです。

日本も同じく自己発の国ですが、その原罪は古事記に記されています。

つまり於能碁呂島を神の命により造った伊邪那岐の命と伊邪那美の命の「みとのまぐわい」という神生みの儀式に際して天の御柱を伊邪那岐が左から伊邪那美が右から回って出会った際、伊邪那美という女神から「まあ、なんていい男」と声をかけてしまったのが「自己発の原罪の出発点」だったのです。

荒唐無稽に思われるかもしれませんが実はここが「神々による、その統治する人間に対する呪い」の始まりなのです。

つまり間違ったことをしたら悔い改めて心を禊払いすればよいという日本的感覚はこの後出てくる「小門の阿波岐原における黄泉の国から逃れてきた伊邪那岐の禊払い」から生まれているのですが、その前の原罪は決して許されていないのです。

西洋キリスト教もしかりでエデンの園を追い出されたアダムとイブはその後も子孫が罪を犯して、神々によってその度に呪いをかけられていくのですが、その呪いはエデンの園の罪以降今現在も継続中です。

さてここでアメリカという国の特殊性を記しておかねばなりません。

アメリカは自己発と他人発の共存している大陸に他人発のヨーロッパ人が侵略し自己発のアジア人の居住も許している国なのです。

だから選挙民の数によって自己発にも他人発にも変化します。

すると当然選挙民の数の多い地域では韓国民の慰安婦像という反日プロパガンダという自発も許してしまうのです。

日本の社会現象を見ていると他人発の脅威である隣国の中国・韓国・ロシアの自己発行為に対して阿部内閣が集団的自衛権という自己発防衛をやろうと努力しています。

つまり他人発の迷惑行為に対していかに防衛しようかという自己発行為だと解釈出来ます。

これに対して憲法改正をするのが筋だと言っている人は他人発の迷惑行為に対してこれを視野に入れずに自己発の正当性を吟味しているのでしょう。

あえて言わせてもらえば自己発の正当性の発見は無意味です。

他人発と自己発のバランスの中で正解を見つけていかないと正解にはたどり着くことが出来ません。

まるであなたがダンスを踊る際にリーダーとのバランス関係より「自分はこうすれば良いのか?ああすれば良いのか?」となやんでいるようなものです。

まずは一緒に踊ること。

そしてその中で平和的パートナーシップを見つけることです。

嫌な相手とは踊らなければよろしい。

時には踊りづらく摩擦も生じるでしょう。

その他人発との関係を改善して行ってこそより良い関係が結ばれるのです。

そして貴方の自己発も発揮出来るのです。

日本の踊りは世界での競技という戦いの場においては全く役に立ちません。

私もロンドン留学までは徹底して自己発のみの日本式舞踏法でしたが他人発を中心とする世界の戦いの場では途方に暮れて全く戦いになりませんでした。

それから一念発起して他人発の戦い方を覚えて今は双方使いこなしています。

その世界ダンス戦争の中を体験してきた人間が言えることは他人発の対処こそが理論的で自己発には理論は不要で必要なのは努力あるのみということなのです。

他人発の「他人」とは天・地・人のことです。

天の理・地の理・人の理(ことわり)こそが真っ先に研究され論じられるべきで、自分発の真偽性をお互いに論じ合っていても意味有りません。

自分たちの子供の将来や自分たち労働者の権利や待遇改善という自発的動機では他発的な戦争には対処できないのです。

まず他発的な事柄を処理しておいてそれから自発的要望に向かっていくことが絶対条件です。

「天の理」とは自分たちが地図の上に乗っているという概念を捨て、太陽に対して傾いて自転している地球の上に乗っているということをこの身で自覚して、それではその太陽は宇宙においてどのように傾いてどの位置に存在しその宇宙の外はどうなっているかを検証し、地球上の人間にどのように影響を及ぼしているかを知ることから始まります。

「地の理」とは地面においてどのように生活するかということではなく、この地球において私達の生命を育むエネルギーがどのように噴出してくるかを知ることから始まります。

「人の理」とは天地にあって決してそれに負けないで生き抜いていく力をどうやって獲得していくかということを知ることから始まります。

天の理の学習不足が地図上での領土争いという誤解による世界戦争を生み、地の理の学習不足が地にかけられた神の呪いを知らずに病気を生み、人の理の学習不足が人の根本が戦うものであるということが認識出来ずに平和ボケして他人に甘え為政者や経営者に対する反発を生むのです。

これらを学習されずに育った今の若者は悲劇です。

「他(人)発」は学習すればするほど自分も周囲も幸せに導くことが出来ます。

「自(分)発」は学習するのではなく手に入れるべく努力することです。

政府発や親発の御金や平和や安全は子供の努力への邁進力を削ぐことに直結します。

 私はFacebook等に載る(旧)社会党や共産党の拡散投稿を見るたびにウンザリします。

いまだに自己発のスローガンを掲げて日本という自己発の枠から出ていない庶民を先導しそれが社会正義であるかのごとき発言を繰り返している輩の集団に、これからの地球上に住む人間の平和と安全が問われてくる未来を任せることが出来るか否かは火を見るよりも明らかではありませんか。

日本人が日本式ダンスで世界の競技会から遅れをとってしまったと全く同じ過ちを社会でも拡散している人間がいまだに後を絶たないのは非常に悲しいことです。

何故ならこれはそのまま仏の苦しみ・神の怒りでもあるわけですから、、、。